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​身近な風景

馬にまつわる物語③

  • 執筆者の写真: tokyosalamander
    tokyosalamander
  • 1月11日
  • 読了時間: 7分

更新日:1月12日

2026年1月10日(土)、那珂川町なす風土記の丘資料館の特別陳列えと展「午(うま)を考古学する」を見学しました。


同資料館では、毎年この時期に、えとに因んだ企画展を開催しています。

「馬は、現在、動物園や牧場でふれあうことができ、競馬や乗馬、スポーツやレジャーで活躍する姿を見ることができます。しかし、かつては、軍事的・経済的・政治的に人々や国家を支えてきた動物でした。」


同資料館の展示では、干支と馬の関係、馬と人との歴史や文化などについて紹介されています。本ブログでは、展示資料をもとに、補足した情報を加えた内容を紹介します。なお、展示物の写真撮影およびHP等での公開は認められています。展示資料等に記されていた文言から一部引用した部分は「」で示しました。


1 十二支の動物について

同展の目玉の一つが、町指定文化財の「東光寺十二神将像 午像(珊底羅:さんていら)」ではないかと思います。「午像の頭の上には、馬の頭部が乗っています。この像は1975年に山林火災が発生した際、有志の人たちによって東光寺の薬師堂から救出されたものの1体です。


十二神将は、薬師如来を守護する神将で、薬師如来を12の方角、時間、月から守るとされていたことから、のちに十二支と関連付けられたとされています。

珊底羅は、真南の方角から守護するため、十二支の午と結びつきました。


もともと十二支の文字には、動物の意味はありませんでしたが、約2400年前(中国の秦の時代)、農業を効率よく行うために、身近にいる覚えやすい動物を当てはめたと考えられています。


ちなみに、「午」は「午(うま)の刻」と呼ばれ、今の午前11時ごろ~午後1時ごろを表していました。「午の刻」の真ん中が、「正午(しょうご)」(お昼の12時)で、その正午より前が「午前」、後が「午後」となっています。


また、この時間を表す字として「午」が選ばれた理由の一つは、餅つきに使われる杵(きね)の動きにあるとされています。杵は、いったん上まで振り上げて、そこから一気に下ろす動きをします。この動きは、太陽が一番上(南)まで行って下がる、という流れにそっくりだったため、杵を振り上げた頂点の時刻と方角(折り返し点)に「午」の字を当てはめました。


また、「道具のきね」は、もともと「午」の字でしたが、方角や時の「午」とまぎらわしいことから、「道具のきね」のほうが、木で作られたことが分かるように「木」偏を付け、後から「杵(きね)」という字が作られたという経緯もあるようです。


そして、「午(うま)」という文字の響きが同じで、力強さや勢いがあり、太陽がいちばん強くなる南の方角とも相性がよいことから、「午には馬」が当てはめられたと言われています。




2 日本にやってきた馬

人類が馬を家畜化した時期については、五、六千年前くらいという説があります。ユーラシア大陸の草原地帯のどこかで、人間は野生の馬を家畜化することに成功し、乗馬の文化がヨーロッパ、アラビア、中国に広がりました。


一方、縄文時代、弥生時代の日本には馬がいなかったことが、中国の史書「魏志倭人伝」に示されています。邪馬台国の時代(3世紀頃)の日本には、牛、、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)がいなかったと記録されています。(原文「其地無牛馬虎豹羊鵲」)


日本には古墳時代中期(5世紀)に朝鮮半島などを通して、馬や関連の技術などが導入されました。その背景として、4世紀以降の朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅などが群雄割拠し、戦いが絶えなかったことがあります。朝鮮半島北部を領し、騎馬戦力に優れた高句麗が強大化する中、百済などが日本に軍事支援を要請するとともに、馬や馬の飼育の専門家を派遣するなどして、日本での馬産地づくりに協力したのではないか、と考えられています。


馬を飼育するには、火山の地質に由来する「火山性草原」が適していたことから、日本は馬の飼育に適していた環境だったようです。朝鮮半島には本格的な草原土壌が無いため、戦争が続き、馬の需要が高まった時、日本で馬を増やし、5世紀には朝鮮半島に馬を輸出するまでになりました。つまり、馬はまず、軍事力の象徴として、日本に入ってきました。


以上は、蒲池彰浩著「馬」が動かした日本史(文春新書、2020年、文芸春秋社)を参考にしました。


「その後、馬は王権に管理され、適した土地に牧(牛馬を放牧して飼育するための場所)をつくり、地方の豪族らによって繁殖が進められました。


馬文化の広がりは、古墳から出土した馬具や、古墳の周りで発見される馬形埴輪からもうかがい知ることができます。栃木県では、県央南部に馬具や馬形埴輪の出土は集中しています。」


3 人の活動を支えた馬

これは、8世紀前葉の土器「うまや」(駅の旧字体)です。律令制で、諸道の約16キロごとに置かれた施設です。


「馬は足が速いことから、都と官道沿いの駅家や役所への連絡、荷物を運ぶなどの活躍をしていました。「延喜式」(927年)には、駅家や郡に最低限備えておく馬の数が記されています。」

普段使っている「駅」という字には、馬偏が使われています。もともと、「駅」は馬を交換する場所であったことを示しています。今でも、日本独特のスポーツ文化である「駅伝」として伝えられています。


江戸時代以降になってくると、「栃木県北部やその周辺は有数の馬の産地であり、黒羽藩や烏山藩などで産馬が奨励されていました。明治時代になると、地域の有志が産馬の組合を作り、馬の改良や仔馬の競り市が各地で行われていました。」


「馬は人々を支える重要な労働力でもあり、米や特産品の煙草と並んで農家にとって大きな収入源でもありました。そのため、江戸時代から馬の無病息災を祈願し、供養のために馬頭観世音(ばとうかんぜおん)を初めさまざまな石仏や記念碑が建てられました。」



「民間の馬を把握するため、大正10年(1921年)に馬籍法が制定されました。市町村が一頭ごとに馬の名前や所有者、出生後の情報が記されました。そして、昭和12年(1937年)にはじまった日中戦争では、馬も徴発されました。」


「大切な家族であり、労働の担い手がいなくなることは、非常に大きな負担となりました。」


現在、神様に願い事を祈願するとき、願いがかなったお礼として、「絵馬」を奉納する習慣があります。しかし、昔は、神様は神馬(しんめ)という馬に乗って人間世界にやってくると考えられていたため、生きた馬を献上していたそうです。


それが、本物の馬の代わりに、土で作った馬形や、木で作った板立馬のように徐々に簡略化され、最後には絵に描いた馬「絵馬」が奉納されるようになりました。



さて、上の写真の絵馬は、人の願い事ではなく、「馬の健康祈願」のために奉納されたそうです。自分の願い事はさておき、馬の健康を願う人々がいた時代が確かにありました。人と馬とのかかわりや馬への愛着は相当大きかったと想像できます。



以上、那珂川町なす風土記の丘資料館の特別陳列えと展「午(うま)を考古学する」の内容を紹介しました。


馬と人との歴史や文化や人とのかかわりについて、初めて知ることができました。

とても充実した素晴らしい企画展でした。



PS:この記事を読んでくださった赤羽さんから、住宅地で見かけた「馬頭観世音」の写真とコメントをいただきました。ありがとうございます。

「江曽島町近辺を散歩していて馬頭観世音と彫られた石像を2か所で見つけました。以前は馬を飼っている家が結構あったのかもしれませんが詳細はわかりません」


→石像には、お酒や水が上がっていたり、柵囲いがされていたり、今でも大切にされていることがわかります。上の「馬頭観世音」は昭和49年と刻まれています。当時の愛馬の思い出を今でも大切にされている方がいらっしゃるのではないかと思いました。



皆様も、どこかで「馬頭観世音」を見かけたら、是非、お知らせください。

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